昔の映画評diary

古書いのうえ


ナビゲーター(1986年 米/ランダル・クレイザ-)

ファーストシーン。犬にフリスビーをとらせる競技をしている。8つの主人公の子供の犬は まるでダメで、両親とメガネをかけた弟と家へ帰る。あたりまえの家庭のある日。 少年は森の中へ弟をむかえに犬をつれていく。崖に落ち込んでタイムスリップする。 少年の幻想なのだろうか。 円盤と冒険したあと、12年たったあとの両親や弟と暮らすことを拒む(自分は少年のままだ)。 再び円盤の中へ。時間の逆行を望む。崖で気がつく。線路を渡り我家へ着く。 両親と弟(元のままだ)が花火をしにちょうどボートに乗り込んでいるところだ。

ストーカー(1979年 ソビエト/アンドレイ・タルコフスキー)

妙に強烈に印象に残る映画だ。 多少茶がかった白黒映像の導入部。暗い沈うつな絶望的なすべり出し。そして 奇妙な会話がどんどん見るものを引き込んでゆく。あの原子炉事故を連想 させずにおかない不気味な映像。絶望的な呻吟。哲学的あるいはカフカを 連想させるストーリー。出口なしの体制に対するかすかな希望を見い出すための 必死の映像なのだろうか。 幻想の映像、知的想像力のシニカルな迷路的な映像。何者かを象徴している、 いやさせようとしている。ソビエトの人はどう見たか知りたいものだが。 終幕の主人公の夫人と子供は何を意味するのか。 愛や希望、生きる支え、生きてゆく希望、また未来への希望の予感であろうか。 もう一度見てみたい映画だ。

雪の断章(1985年 相米慎二)

たまにいい映画にいき合うとうれしいものだ。最初のシーンの撮りっぱなしの場面、 なかなか凝っている。いっきにつり込まれていく感じ。人物のアップが少なく遠景で とらえたシーンが多いのが特徴だが、カメラと人物との緊張感が力強く目が離せない。 「光る女」でもそうだった。「光る女」も良かったがこの映画も何故かしら印象強く 残る映画だ。

アンタッチャブル(1987年 米/ブライアン・デ・パルマ)

オールド・エイジの再現。平和な小市民家庭。共にたたかう仲間たち。 アンタッチャブル自身は平凡な官吏だ。対するギャングたちも伝説のギャングたちに違いない。 だとしたら描写の細部で、そのダイナミクスで何かを発揮する必要がある。 階段のシーン、殺し屋を追うシーン。徹底的なアクション映画を撮った方がいいのではないか。 あまりに主人公が端正すぎる。

(番外)手塚治虫訃報(1989年2月)

手塚治虫が先日亡くなった。がん死だという。60才。その衝撃が徐々に広がってくる。 その存在がこんなにも大きいとは自分でも気が付かなかった。 貸本屋(駅の近くにあった)で次々と借りた「ジャングル大帝」。衝撃だった。 孤独な人格形成。ヒューマニスム。ユーモア。機知。暖かさ。 「リボンの騎士」。小学生のころ買ってもらった「鉄腕アトム」。何度繰り返し読み、 心のひだに焼き付いたことか。うろ覚えにストーリー、登場人物も覚えている。 「理解されない孤独」「自己犠牲的ヒューマニスム」「悲しさ」「愛情」「涙」 鉄腕アトムはいつも全能でない悲しさを背負っていた。自分の力でどうすることもできない悲しさだ。 その後アトムは変容していった。いつかその変容を批判的に見るようになりライフワークといわれる 作品には関心はわかなかった。 改めて訃報に接し少年期にどれだけ影響を受け、その影響のもとにあったか、 大きな穴でも空いたような気分でいるのだ。 静かにお眠りください。合掌!

あ・うん(1989年 降旗康男)

昭和12年ころからの話だ。セピア色というか色彩を落とした暖色系の画面構成 が沢山出てくる。不思議な作品だ。主人公たちの情念に深く入り込むわけでもない。 本当の気持ちは中々わからない。こわれそうな一種のバランス。あの夫婦の関係 はどうなっているのか。もう一人の主人公のどうにもならない気持。それに気付き 指摘する娘。その娘の恋愛に手を貸す男。いろんな騒動を起こしながら物語は進む。 決裂そして別れ。男同士の友情、奇妙な友情と間に立つ女の不思議さ。

恋人たちの予感(1989年 ロブ・ライナー)

主人公の女性、これが魅力的だ。典型的な金髪美人なのだがインテリでN.Yでは 孤独なのか。男がこれが大してハンサムでないのがいい。別れた女房が別の男と 結婚したことを知ったときの茫然としたような顔、それが無表情の仮面のような顔になる。 それがいいのだ。 2回目のクリスマス、いや大晦日だったか女はダンスパーティで華やかに着飾っているが 目はうつろだ。男は人気のない町をさまよい、内部の衝迫から女のいる会場へ走る。 「卒業」のイメージか。死ぬまで一緒に暮らす人間を捜す物語。10数年の月日をかけて。 日本人ならああいかない。自分を肉親や家族から引き離す習慣にめぐまれていないからだ。 個として生きる環境、それを容認する社会にも欠ける。どうしても家族とか肉親となってしまう。

夢(1990年 日米/黒澤明)

全8話からなる「こういう夢を見た」というオムニバス映画。 一番印象に残るのは「水車小屋」だろうか。 黒澤明の理想郷か。99才でなくなった老婆と見知らぬ旅人の死と。 どちらを選ぶのか。99才の死はあまりににぎにぎしいが旅人の死はさびしい。川のほとりで。 どれもたんたんとしたさりげない主張だ。おしつけ気味の反近代、反現代文明を 訴える部分、そこは耳をおおわなくてはならぬ。黒澤明の真骨頂は作劇にあるのだから。 望遠カメラによって人物と人物を総体でとらえる、その動き、切り分けなのだ。 往年の作劇を連想させる、「ひな祭り」の梅の精を追いかける少年、そのフットワークは 「七人の侍」。「鬼」の旅人と鬼は「隠し砦の三悪人」。 全く前例がないのが狂言回し役の主人公(寺尾聡)。夢の先導役、パソコンのマウスのようなものだ。 ゴッホは「時間がない、急がなくてはならない」という。「よく見ればどれも題材になる」という。 これが遺作となるのか。

愛人(ラマン)(1992年 仏英/ジャン=ジャック・アノー)

監督は「思い出を描きたい」といっていたが、これは恋愛ドラマだ。 ただあの音へのこだわりは一体何だろう。主人公の実家の雨の音、二人が逢瀬を 繰り返す宿の町の喧噪。その雨の音も尋常ではない。一定のリズムの繰り返しの如き 波があるのだ。 主人公の心象風景と関係なく騒音のようにつづくアジアの激しい自然や生活臭。 それと混然となった逢い引き。

遥かなる大地へ(1992年 米/ロン・ハワード)

やっぱりアイルランドだった。あの海寄りの傾斜地。アイルランド移民。 神話を思わせる物語。たしかにトム・クルーズの下層階級の視点から見たドリームだが 主人公とヒロインが兄と妹の関係から発展して土地を獲得し、新たな神話を作る その神話誕生の物語、ドリームなのだ。 確かに土地をレースによって獲得するという夢物語、興奮なしでは見られない場面は現実に 近い話ではあるだろう。でもそれは一つの誕生の神話なのだ。土地に旗を打ち立てる、 それが自分の土地になるという神話、そして家族が、第一の祖先が生まれる。その時かたわらには 獲得した妻がいる。 トム・クルーズは余り印象に残らないが、ヒロインは何故か残る。金髪美形だからか。 目の輝きや表情、アクション。これも神話誕生の要素だ。

大病人(1993年 伊丹十三)

カメラワーク(主題)、セリフ(脚本)等どうも感心しないし退屈してしまう。 作者の私小説を読まされているような妙な違和感がある。 ただ死後の世界を主人公がさまようシーンは奇抜な幻想がきらめくように展開するのだが感心したところだ。 太陽が水平線上にいくつも浮かぶシーン、少女が彼岸へ行こうとするのを押しとどめるシーン。 是非ともこういう想像世界を映像化したかったのだろう。 意外性があるのはこのシーケンスであとはどうということもない。 「般若心経」、あれは何なんだ。

生きてこそ(1993年 米/フランク・マーシャル)

抑制された描写だ。誰がきわだったヒーローである訳でもない。墜落のシーンから「聖餐」、 そして山脈越え、生還まで。淡々とした描写。白い山脈、大地の中での人肉食ということが、陰惨さを逆に浄化してしまう。 人肉食さえも抑制の中で淡々と描写される。 個性のきわ立った対立ということもなく、集団劇として進行する。こんなにも青年たちの すがすがしさにつり込まれてしまう。おどろおどろしいドラマではないのだ。 「神」の試練。「希望」の見えてきそうなとき、それは「絶望」だった。だがそれは「神の試練」 であり「希望への道」であるということ。そのどんでん返し。 「聖餐」が儀式であること。行動で明示すること。 醜い部分、それはそれとして雪に埋没し、死体となり、人間になること。 これは周到に練られたシナリオだ。何げなく差しはさまれた最初と最後の語りの人。 悲惨や陰惨さを強調するのでもない。映像は鋭く、感情移入さえも許さない。

パーフェクト・ワールド(1993年 米/クリント・イーストウッド)

監督がC.イーストウッド(?!)。「知られざる者」といいこの映画といい語り口に 引き込まれはする。だがこれは本物か?のせられたのか?何を考えて作っているのか、 何をのせようとしているのか? これはマユツバではないのか。K.コスナー。あの「JFK」の検事役。何も伝わらない。喪失感が。 状況の説明(過去の説明)はある。それは単に説明でありお膳立てだ。K.コスナーとは ちょっとちがうのではないか。 映画は何百人という人が手を貸す巨大な製造工程であり、製造産業だ。うけねばならぬ宿命だ。 本当の本物(!?)はちょっとちがう。

パルプ・フィクション(1994年 米/クエンティン・タランティーノ)

見ていて快感ではない、不快感、見せられてしまうという感じだ。ストーリーの構成、組立てが尋常でない。 所謂起承転結、アメリカ映画的ハッピーエンドではもちろんないし、語り口はあくまで冷徹そのもの、 観客におもねる所いっさいなし。ハリウッド的安定感なし。むしろ欧州風のところもある。結局舞台はロスアンゼルスであったが。 1.レストランの2人・・・・車中の会話から(?)、銃をかまえるまで 2.押し入る男A,B・・・・銃を放つところまで 3.ボクサーとボスの取引き・・・・男Bも登場   男Bがヘロインを買う 4.男Bとボスの女との物語   監視カメラ、女のヘロイン、男Aからきいた話題を会話にのせる   ツイスト   事件(女が倒れる)、別れ 5.ボクサーの物語   タクシーの女   ボクサーの女、ボクサーの子供のころの思い出   男Bを殺す   ボスとの物語   オートバイ 6.2のシーンの隠れていた男からの物語   男Bの聖書の引用   車中での殺人(誤って殺してしまう)   あとかたづけ屋との物語・・・ボスとボスの女が登場、看護婦の女房が帰ってくる想像シーン   男A、BはTシャツとなる 7.エピローグ・・・レストランのつづき   男A、Bは店を出てエンド まん中にはさんだ物語が先のストーリーなのか。 何故こういう構成なのか。わざとストーリー性をぶちこわしたのか。 2時間40分(?)は長い。疲れた。 あとでストーリーを思い出してみるとどうも印象に残るシーンはあるが、出演者(特にボスの女とボクサーの女)がいい。 そのストーリーに否応なく引きずり込まれる。その意外性。日本やくざ映画のパロディーさえあった。 中産階級的な文化、保守性に対する皮肉。男Aの友だちがまともなマイホーム主義者 だった(!)。まさに陰と陽。光と影。 人種的ごった煮の世界から生まれた狂気の物語だ。

午後の遺言状(1995年 新藤兼人)

杉村春子のさりげない演技が光る。映画は画面の構成(切り取り)、モンタージュであることを 再認識させてくれる。 能役者と元新劇女優夫婦の来訪、管理人の娘と婚約者、脱獄者と警察、夫婦のの道行きとルポライター。 単調の中に起る事件、祝宴、道行きの追体験。最後は新劇女優(杉村)の過去がくつがえされる。 乙羽信子(管理人)はひっくり返す存在なのか。 映画監督とは強引に自己を押し通すエゴイストみたいなものだ。コトバで二言三言ですむものを 映像をカット割りして表現しなければならない。そして俳優を自在に動かす。 そしてまた訳の分からぬ疑問符を投げつけてドラマを収束させる。 道行きの二人は何故海で自殺したか。ルポライターは何なのか。 ゲートボール中の老人を襲う男は何なのか。 食欲旺盛な痴呆症の元新劇女優は何故死ななければならないのか。 道行きをわざわざ追体験するのは何故か。 カット割りは何の変哲もないカット割りだ。 女優と管理人。作者は何かを象徴させたかった。疑問を疑問のまま見るものに 投げかけたかった。

静かな生活(1995年 伊丹十三)

かわいい女の子が主人公の映画だ。大人たちは背景だ。 そのかわいい女の子で全部見せてしまう。 語り口はうまい。いつものうまさだ。ぐいぐい引き込んでゆく。 そして2,3次元高いレベルの生活、知識人の生活を描く。 「性」が必ずついて回る。そして「性」に全く関係ない弟。 中年の男たちは蹴とばされ、死んでゆく。哀れな存在だ。 背景にある大江健三郎はたよりない存在として描かれる。なんとなく落ち着いた優雅な生活。 暴行しそこなった少年にかわって死姦する中年男。 少女をつかまえて顔面XXを試みる常習中年男。アップでとられるそれらの男の 切羽詰まった顔。どちらもうらぶれたコートをはおっている。 大江自身も自殺願望。自虐性。息子への不安。 人前では「魂の救済」などと説く。その両面性。 スポーツクラブのプールの太った中年女性たちは何か。 アクセントのため、笑いを誘いたいため? ポーランドの来日した大統領に直訴する知識人女性とそのダンナとは? 高級官僚を非難するダンナに同調する!! ポーランドから礼状を送ってくるポーランド女性とは何の意味があるのか。 数学に強い受験生の末弟とは? 自転車のベルを鳴らして危機を知らせる姉(主人公)、その懸命さ。 汚い、やりきれない、カラ振り知識人の中年男女たち。 そしてあくまで清澄な姉弟との対比。障害であることは弟の存在自体だということ。

あした(1995年 大林宣彦)

2時間20分という長い時間だが、なぜか非常に早く感じる。テンポ早く物語は進んでいく。 事故でそれぞれのつれあいが死んだということがキーポイントとなって一気に感情移入を はかるよう仕組まれ、「悲しみ」と「涙」が画面の底をおおい尽くす。 カッティングは有無を言わせず5つ位のシーケンスを重層させ一か所へ集中してゆく。 狭い瀬戸内のフェリーのある漁港の中で。 少女たちの成長しきれない肢体が躍動する。(大林好みの少女なのか) 映画という虚構の中で少女たちは自分をさらけ出してゆく。 甘酸っぱいノスタルジーに包まれた、また男たちを描くときはステロタイプだが幾分古風な世界。 三輪トラック、レトロ風な乗用車。かつまた近代的な短大に通う少女。 新しさと古さが混在した海と山と町が重層した世界。 そこである情感に一気にもっていき、たった半日の中でドラマを進行させたかった。 一か所へ集合する騒々しさを重層させて描き、古びたフェリー待合室に集結させ、恋人や夫婦や 片思いの男女の「死者の一時的なよみがえり」を下敷きとした凝縮したドラマを作りたかった。 その虚構の上にさらに切迫した愛の仮構を描きたかった。 1.自転車の少女とカメラマンの青年 2.モーレツサラリーマンと妻と娘 3.事業家と妻と女秘書 4.水泳コーチと白血病の女とコーチを受けていた女 5.組の親分と子分と親分の妻と孫 6.小学校の同級生でたまたま再会した男女 7.恋人が遠くにいて会えない女 「異人たちとの夏」も死者との再会を描いた話だった。

チャタレイ夫人の恋人(1993年 英/ケン・ラッセル)

何と主人公の女性をきれいに撮っていることだろう。彼女の美しさ、立居振舞いで見せてしまう。 映画のふしぎさ、魅力だ。 貴族(大工場主、石炭王)vs平民という1920年代の対立はあるがあくまで背景だ。 森番=恋人も階級差、身分差を介することはない。 何とのびのびした主人公の振舞い、個性、そして行動。何のタガもない。自由世界へ行くようにカナダへ行く。 脇役のメイド、主人公の姉の個性。細部のゆき届いた描写だ。きらめくような映像だ。 森の中のその森の樹々をバックとした二人のアップ、そのきらめき。あっけらかんとした「性」の謳歌。 物語の大半は屋敷で夫との生活と森番との密会が交互に描かれ、徐々に主人公が森番と 親密になっていく。嵐の中ですっ裸でかけ走り、たわむれる。そこがクライマックスだ。 森番は花を編んでコニ―(女主人公)に付ける。 気にかかる夫がメイドを迎えにやると妻は逆に何で干渉するのかとメイドと夫につかみかかる。 全く臆するところないその何者にも束縛されない、指図をうけない精神の気高さ。 これがこの映画をつらぬく主人公の強烈な生き方だ。 苦境に陥っても堂々と自己主張し、引っ込まず、ごまかさず、自己をストレートにぶつけるその行動。 ラストは原作通りだったか。多分こんな結末ではなかったように思う。 ロレンスの父は炭鉱夫だったが、その荒々しさ、野性を森番に託したのだろうが、 この映画にはそういう感じはない。鉱夫たちに対しても森番(メラーズ)はむしろ弱々しい。母親に対しても。 その辺はするっとすり抜けて女主人公の側からドラマは進行し終着する。 そこが原作と違うところだ。

ジャンヌ・ダルク Ⅰ.戦闘(1996年 仏/ジャック・リビット)

いはば等身大のようなジャンヌ・ダルクだ。弓を射られれば死ぬのではないかと恐れおののくし、 馬は初めてだと言うし、実際の戦術は人に相談したりするし、普通の民家に泊まって娘と対等に話す。 天上の者の宣旨で動くのだが決してそれによって人を惑わすでもない。自己を誇大化するのでもない。 急に神の宣旨を受けて戦闘におもむくにしても、むしろたどたどしいくらいの描き方だ。 カメラは常に一定の距離をおいて彼女を描く。 戦闘する戦士たちは特に勇猛そうに見えないし、勇敢に動くわけでもない。 第一人数が少ない。大戦闘という訳でもない。 担ぎ上げられた国王の王子も王宮というには貧しい館にいて、強い権力をもっているとも思えない。 単なるリアリズムかといえばそうでもない。抑制だ。間あいだのナレーションが物語を 冷静に区切っていく。カタルシスはない。抑制した描写によってジャンヌの平民性(?)、 孤独、狂信的とは違った宗教的啓示によって行動する少女を描きたかったのか。 その先に見えてくるのは清冽さかもしれない。

鉄塔武蔵野線(1997年 長尾直樹)

両親の離婚という負を背負った少年。その夏休みの最後にひたすら鉄塔を目指す。 その1日の旅が延々とくり広げられる。下から仰ぎ見ながら、あるいは遠くから鉄塔を見る。 畑であったり田んぼであったり森であったり、その上に立つ鉄塔とそれを走破する少年。 その無意味なはじめで最後の旅を描写する。 あとは何もないのだ。父が死んだり、母もとへ帰ったり、転校したり。そしてまた鉄塔。 終着は変電所。それだけの行為、やりとげる行為を描く。 人間対人間のたたかいやドラマがある訳でもない。作者も少年と共に鉄塔を辿ってみたかった。 その少年の気持ちを丁寧に描きたかった。

存在の耐えられない軽さ(1988年 米/フィリップ・カウフマン)

ソヴィエトの介入等政治的動きが中ばでドキュメンタリー的に出てきてどう展開するかと思ったが、 スケールの大きい恋愛映画だ。 可愛い片田舎出身の妻と芸術家の愛人との三角関係。 きつい政治的背景と個人の欲望の肯定。 これはストーリーもさる処、俳優たちの存在感、魅力の映画だ。 ヒロインの女優の可愛らしさ。主人公の男の色男っぽさ。人間肯定の映画だ。 そしてかなり計算された演出という気もする。

ポンヌフの恋人(1991年 仏/レオス・カラックス)

ジュリエット・ビノシュ主演で選んだ。汚れ役で男と橋の上で路上生活。 気品あるふんい気からほど遠い。 こんな視点からしか描けないのか。これが彼らの日常なのか。 でもふしぎな作品。暖かさとか恋人らしさとか、絶対信じない話だ。

スターリングラード(1993年 ヨゼフ・フィルスマイアー/西独・米合作)

「Uボート」のスタッフが作ったそうだ。 敗れた側からだとこういう「惨」の映画、告発の映画となるのか。 戦勝国のものとは大違い。 戦いの勝利だとか、勇猛さだとか、華麗さだとかとは対極。 戦場での兵士のおびえ、かっこよくない戦い方、死に様。 民間人の悲惨、捕虜の虐殺。兵士の脱走すらある。 絶望感に満ちた映画だ。

WATARIDORI(2001年 仏/ジャック・ペラン/仏ドキュメンタリー)

渡り鳥を遠くからでなく、間近に、共に飛びつつその飛行をとらえる。 鳥の声、翼の動き、それを現前に見せる。 何故渡りを行なうのか、疑問を提起しながらいろんな渡り鳥を追いつづけるが、その疑問を解くでもない。 ひたすら、世界のあらゆるところにいる渡り鳥を追う。 「映像詩」に近い。 その無償の、太古以来の、季節がくれば飛ぶという習性、死を賭して、「不安をかかえ」ながらも飛ぶ習性。 それをひたすら、間近から、鳥の視線で追う。

屋根の上のバイオリン弾き(1971年 米/ノーマン・ジュイソン)

3時間近くのドラマ。そんなに長く感じさせない。 娘たちが次々と相手を得て、離れていく。 その娘たちは決して美人ではない。地味だ。 でもひとつひとつ出会いがあり、幸せをつかんでゆく。 主人公は呻吟するが、どうにもならない。 要所要所にミュージカルなので歌。 ユダヤ人が住むロシアのウクライナ(?)あたりの集落。 コサック踊りも登場するからロシアの農民が隣接しているのか。 スターリン似の警察官が時々やってくる。 立退き命令で彼らは手早く荷をまとめて去ってゆく。 その行列はのろのろと続く。大きないかだに乗って川を下る。 彼らは一体何だろう。 カタストロフィーはない。ニューヨークへいきなり行ったって生きていけるのか。 流浪の民。でもロシアの肥沃な大地で平和な生活を営んでいた。 彼らのルーツだ。

白昼の通り魔(1966年 大島渚)

傑作だ。川で佐藤慶がひっくり返りながら、流れていくシーン。ずっと昔見た記憶がよみがえる。 この映画は中々、何を言いたいのかわかり難い。昔も皆目理解できなかった。 でも今回は何となくわかったような気がする。 主人公シノに何となく仮託しているようだ。 追いつめられ、選択、決断してゆく。死んで犯され生き残り、心中してして生き返る。 それでもしゃべり、主張し、攻撃的に生きる。そのダイナミクス。 理想や主義は滅んでゆく。シノはまた生き返ってしまう。 でも生命讃歌ではない。状況論として、主人公たちに語らせたかった。 二重の視点で語りたかった。

日本の夜と霧(1960年 大島渚)

これも昔見た。大学文化祭で、新宿ATGで。 作劇の面白さ。意外さ。大胆さ。暴いていく心地よさ。 演出のダイナミズム。パンしていくカメラの動き。 それらがあふれたみずみずしい作品だ。 終始青っぽい暗い画面がおおい、大学構内という舞台にしぼった群像劇だ。

スカーレット・レター(1995年 米/ローランド・ジョフィ)

デミ・ムーアがあまりに美しい。 二人が結ばれるまでが圧倒的で、描写もうまい。夫が現れるその経過、夫の形相もすごい。 でもすぐ不倫相手がわかってしまうのが物足りない。じわじわと追いつめるのでなく、 一気に行動するのだから。 夫は突然首をつってしまうが、何故だろう。最後まで対峙してほしかった。 何となくハッピーエンドになってしまうのも本当かなと思ってしまう。 「ライアンの娘」(大傑作!)と比較してしまうが、遠近感と時間も足りない、詰め込んだ感じがしてしまう。 でもデミ・ムーアの出るシーンはどのシーンも凛々しく、美しく、輝きがあった。 牧師も支配(清教徒)側で、共に対峙することができない。そういう歯がゆさがある。 対立軸がもっと明確で、アーリーアメリカの清教徒たちの根底矛盾があらわになればもっとよい。 そういうスケール感、人物造形がほしい。

血と骨(2004年 崔洋一)

これは朝鮮(韓国)人の視線で見た戦中・戦後史だ。 現在の位置からの執拗な再現だ。 その経緯、家族史の重層的な積み重ねに作者は何を訴えたかったのか。 歴史は誠実に再現される。 戦中の朝鮮人の同化策、報国、戦後の回復、共産党の火炎瓶闘争、闘争の終了、帰国事業とその結末。 総力を挙げた戦後史だ。 その間の家族のあいだの夫婦、親子の対立・憎悪。 この主人公の強烈な父性を讃辞したかったのでもない、葬りたかったのでもない。 「血と骨」という文学題材を得て、映像が文字に勝つための映画の語り口、映像の 積み重ねを丹念に追究し、朝鮮人史(日朝史)を再現したかった。 目をそらすでも、隠ぺいするでもない。日本に来た朝鮮人の生活を真正面から描きたかった。 それを描いた最初の作品かもしれない。

變臉(へんめん)(1996年 中国/呉天明)

変面王と呼ばれる老芸人。跡継ぎとして引きとった少年(実は少女)との物語。 女の子とばれ、芸を仕込まれるところが面白い。「ご主人様」と呼んでコンビが続くかと思われたが、 少女の失火で先がなくなる。老人は誘拐の疑いで入牢。京劇の女形(?)の助けがあり少女と再会。 この辺が山場でストーリーと語り口はまあまあだ。女変面師になりそうな結末でEND。 この女の子がとても可愛いいし、ハラハラさせる。 捨て子や人買いなど中国の暗部、軍人の横暴なふるまい、大衆演芸など社会の矛盾や底辺も見せる。

古井戸(1987年 中国/呉天明)

三角関係と岩だらけの寒村の話。 高い山間部を調査する2人。何のためかわからない。 水の調査、探査とも思えない。 男の無目的性。好きでない女と結婚。本当に好きな女とは一緒になれず、井戸が 崩壊したとき抱き合うだけ。何とも歯切れ悪い動きだ。 盲目の女芸人たちを呼んで楽しむ村人たち。ロックらしき音楽で踊る若者の閉塞感。 井戸掘り資金が足りないからと、家具等を拠出する家族。それに無関心な者たち。 統一感を欠く描写だ。絶望感の表現か。 2人の行く末はどうなるのか。女の子は都会へ行くのだろうか。

にんじん(1932年 仏/ジュリアン・デュヴィヴィエ)

32年といえばルネ・クレールが「自由を我等に」や「パリの屋根の下」で登場人物に明確な性格像を与えることなく、 都会の男女の喜怒哀楽を表層的に描写していたころであり、マルセル・カルネも未だ姿を見せていないころだ。 この「にんじん」では既にすばらしい性格描写が与えられており、映像表現も今見てちっとも見劣りしない新鮮さをもっている。 この映画でデュヴィヴィエは「パリの空の下セーヌは流れる」のように主人公たちを強く突き放して 描くシニカルな調子は見られない。 ここでは「愛されていない」と感じた少年の強い感受性が放つ抒情だ。 少年の心の起伏に従って風景描写が一定のリズム、アクセントで対応するように描かれる。 作者の心象ものめり込むように動く。 内深く入ったかと思うと遠くから静かに見る。画面そのものが作者の心の動きだ。

パリ祭(1933年 仏/ルネ・クレール)

男に裏切られたと思った女は男と仲たがいし、男は昔の女の方へ走る。 女の母が突然死に瀕したとき、女はとっさに男の名を叫ぶ。 祭りの場にいる男はその声を聴いたような感じがするが今の女がダンスを誘う声だと納得する。 泥棒仲間に身を落とす男とカフェで働く女と。また幾年かが経過する...。 互いの思いが相手にうまく伝わらない、恋愛映画の絶品だ。 女(アナベラ)をとてもきれいに撮っている。

大いなる幻影(1937年 仏/ジャン・ルノアール)

ドイツ軍に捕虜となったフランスの将校と軍人。 何となく戦争になり戦い、何となく捕虜となり、何となく戦争が終ってほしいという映画だ。 戦争は幻影であるから彼らは幻影から懸命に逃げようとする。 作者はこんな戦争は本当はなかったのだ、幻影だったのだと言いたいに違いない。 それ故かれの描く戦争は全くリアリティがないが、詠嘆を込めて描いているところは 彼の悲痛が見えるようだ。国境を越えることのできた二人にせよ、ドイツ人女親子にせよ、その行く末には まだまだ現実の暗雲が垂れこめているのだから。

パリの空の下セーヌは流れる(1951年 仏/ジュリアン・デュヴィヴィエ)

老婆と子供は救われる。精神を病む青年芸術家はぶざまに死ぬ。 パリにやってきたばかりの希望溢れる若い女は殺される。 努力家で堅実な恋人たちは救われる。初老のプロレタリアートは災難に遭う。 作者はこれらの人物群像を当たらずさわらずに淡々と描く。 明日の運命を握っているのは神のみであり、また神の守護もあるだろうという如く それぞれの人生模様をシニカルにまた愛情込めて描く。

アポロンの地獄(1967年 伊・モロッコ/ピエル・パオロ・パゾリーニ)

子供が生まれる。出征兵士の父親が帰り子供と対面するが、若くりりしい父親は激しい敵意の目で息子を見る。 広い野原でしばしば息子と戯れた若く美しい母親は騒がしい周囲の祝福の中で、夫を迎える。 夜、子供は寝付かれない。起き上って窓辺は寄ると父と母が楽し気に踊っている姿を見る。 突然花火が打ち上げられ、子供は激しく泣き出す。 寝入った息子をなおも憎悪の目で見る父親。一瞬息子に殺され愛妻を奪われる恐怖を感ずる。 捨てられる子供。他国の王の寛大で晴れやかな迎え入れ。逞しい伸びやかな成長。 だがその陰に暗い不安定な感情も同時に芽生えている。心なしの不安を確かめにアポロの神託所へ旅する。 自己の在り場所を探しに行くその退くことのない覚悟が大仰な旅かっこうに表れている。 宣託は父親をやがて殺し母親と情を通ずるだろうという恐ろしい予言を述べる。 混乱した彼オイディプスは父母(と思っていた)の所へ帰らず逆の道を行く。 そして知らず知らずに予言を成就してゆく...。 荒涼とした赤っぽい山山、丘丘を背景に、それらを心象風景として作者は一度は通過しなければならない 自我(青年)のドラマとして造形する。

日本女侠伝 鉄火芸者(1970年 山下耕作)

鉄火芸者と呼ばれる度胸が立ち、見目もよく勝ち気で男まさりだが、忘れられぬ一人の男の影を追う 切ない心をもった女。 願いかなって再会するが、男は今は正業だが重く暗い過去を背負っており、昔恩をかけた女を思い出すことができない。 女は温めていた夢破れて一緒になることままならぬ。 芸者でありやくざであるという境遇でしか遭うことがないというこの世ならぬ宿業。 男は正業に戻してくれた恩人の死をきっかけに修羅場へと突進してゆく。 想う女はその惨劇のあとを遠くで見送るしかない。

馬と呼ばれた男(1969年 米/エリオット・シルバースタイン)

同行する白人たちの意地汚なさを導入部に描き、主人公がスー族に捕まりその生活風俗を描いていく作者は 新鮮な発見をしつつある者のようだ。 物語はこの誇り高いイギリス貴族がいかにしてこのアメリカ先住民部落を脱出するかという話で進むが、 成功に近づけば近づくほど彼はこの部落の中心的位置を占め、指導者の任を引き受けざるを得ないはめに陥る。 貴族としての習性や誇りが彼を積極的な正攻法の姿勢をとらせるのだろうか。 彼の目論見の先は彼の目論見と逆の方向へ行く。 泣きすがる老婆と全部落民を引き受けねばならない主人公ジョンの苦渋に満ちた表情。 作者はこの奇妙な運命に陥っていく主人公と、白人社会とは全く異なる生活風俗をもち、 生死の判然とした強き者のみ生き残るネイティブ・アメリカン社会との両者を等距離の視点から描く。 この先住民部落の運命と主人公の運命がラストにおいて重なり合うのだ。

無能の人(1991年 竹中直人)

主人公の寡作の漫画家は今は作品を書けず出版社からも相手にされなくなっている。 企業社会、大量消費社会からは無縁な生活。主人公のぶざまなそして無気力の生活。 これ以上壊れそうもない極限の生活、そこを綱渡りのように歩いていく主人公。 主人公を取り巻く、変奇な「生活人」とは切り離されたエトセトラの人々の生活。 石の愛好家が集まるセリの場面。主人公は自分の石を出すが値が上がらず、思わず主人公の妻がせり落としてしまう。 憔悴して石をもって帰る主人公夫妻。 作者は主人公と妻その他の登場人物を含めて特に話のクライマックスもなく淡々と描いていく。 不吉の象徴かあこがれなのか「鳥男」(神代辰巳か?)が突然現れる。 陰うつな名曲喫茶の中の客。あれは一体何だ。隔絶した世界を描きたかったのか。 主人公一家のたよりなさはユーモアさえただよってくる。

まぼろし(2000年 仏/フランソワ・オゾン)

夫の母親は妻(主人公)に息子は新しい人生を始めるために失踪したのだろう、自殺はしないと言い切る。 しかもうつ病であることを知っている。 二人はののしり合う。 妻(シャーロット・ランプリング)は見ればトラウマになるという警告を無視して夫の検視に立ち会う。 彼女は夫の死を受け入れられず夫の幻影を見るようになる。 夫が失跡した海岸をさまようラスト。



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